歴史

▼北大手櫓門跡
北大手櫓門跡


熊本城の遺物 (1)


熊本城の遺物 (2)
1: リサとギャスパール ★ 投稿日:2016/05/13(金) 20:55:15.18 ID:CAP
一連の地震で大きな被害を受けた熊本城で、崩落した石垣の石から戦国時代に彫り込んだとみられる観音菩薩が見つかり、インターネットで話題になっています。

熊本城で地震の被害があった石垣53か所のうち、北大手櫓門跡では、石垣が隣接する「加藤神社」の境内に崩れました。神社の宮司が被害を確認したところ先月24日、石に彫り込まれた観音菩薩を見つけました。観音菩薩は、背丈が40センチほどで、後光が差し、ハスの葉の上に乗っている様子が描かれています。

熊本城調査研究センターによりますと、この観音菩薩は、戦国時代に一般の人たちが先祖を供養しようと、「板碑(いたび)」と呼ばれる板状の石碑に彫り込んだものだということです。その後、江戸時代に、熊本城の石垣を造る際、急いで石を集めたために、身近にあった板碑を石垣の石に転用したものとみられ、およそ400年の時を経て今回の地震で出現したのではないかということです。
 
発見した加藤神社の湯田崇弘宮司は、フェイスブックを通じて「永い時を経て現れたこの観音様に思いをはせると胸が揺さぶられる」と思いをつづり、13日までの3日間に1600人以上の反響がありました。 湯田宮司は「地震の被害が大きく、悲しいことばかりでしたが、観音様を見て自然と手を合わせました。私たちのことをこれからも見守ってくれると思います」と話していました。

熊本城調査研究センターの美濃口雅朗主幹は、「期せずして熊本城が造られる前の歴史をかいま見ることができる資料が見つかりました」と話していました。

 
ニュース元
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160513/k10010519781000.html?utm_int=all_side_ranking-social_001
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真田幸村 (1)


真田幸村 (2)
1: いちごパンツちゃん ★ 投稿日:2016/05/11(水) 20:52:08.10 ID:CAP
人気の戦国武将・真田幸村。
イケメンかと思いきや……。歯も抜けた、さえない男性だった。
それがなぜ、輝くスーパースターになったのか。

最近、巷にあふれる幸村は例外なく、「イケメン」だ。ゲーム、マンガ…… そしてNHK大河ドラマ「真田丸」で真田信繁(幸村)役を務める堺雅人さんも、言うに及ばずだろう。きっかけは、人気アクションゲーム「戦国BASARA」シリーズ(カプコン)だ。

しかし、幸村の実相は少々、異なるようだ。上田市立博物館(長野県)が所蔵する「真田幸村画像」では、幸村はちょびひげを生やし、温和な表情を浮かべ、裃(かみしも)姿で座っている。小柄な印象も受ける。とてもイケメンとは思えない。

描かれた時の幸村の年齢は不詳だが、幸村は46歳のころには、歯も抜け落ちていたという。当時、姉婿に送ったとされる、こんな書状が残っている。「去年より俄(にわか)にとしより、殊(こと)の外(ほか)病者に成り申し候(そうろう)。歯なども抜け申し候。ひげなどもくろきはあまりこれなく候」

病気がちで、歯が抜け、ひげの白髪も増えた……イケメンどころか、貧相な容姿だ。 一体なぜ、これが「輝くスーパーヒーロー」になったのか。

歴史研究家で、幸村の直系子孫でもある真田徹さん(67)はこう話す。 「江戸時代になって書かれた軍記物の『難波(なんば)戦記』が一つのきっかけとなり、ヒーロー幸村は生まれたと見られています」

『難波戦記』は、豊臣秀吉が造った大坂城をめぐる冬の陣と夏の陣を描いた壮絶ドラマだ。この中で幸村は、英雄・豪傑として大活躍する。 徹さんは、「徳川幕府への不満を募らせていた庶民が、幸村にヒーロー願望を投影させたのではないか」と見る。


http://www.excite.co.jp/News/entertainment_g/20160511/asahi_2016051000189.html
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ピラミッド
1: ゆず ★ 2016/04/16(土) 08:20:13.65 ID:CAP_USER*.net
「世界の七不思議」で唯一現存する建造物、ギザの大ピラミッド(エジプト)。人類が高度な科学技術を手にした現代にあっても、建造の方法や理由について確かなことはわかっていない。ピラミッドは何のために、そしてどのように作られたのか――? この点について現在、一部の研究者たちの間では「理由など存在せず、もともとそこにあったのだ」とする説が囁かれ始めているという。これは一体どういうことなのか? 詳細についてお伝えしよう。


ピラミッドは定説よりも2500年古い!?

ギザの大ピラミッドこと「クフ王のピラミッド」は、一般に考古学者たちの間で紀元前2500年ごろに建造されたと考えられており、世界各国の教科書にも同様の内容が記されている。しかし、放射性炭素年代測定などの結果をもとに、実は紀元前7000~5000年に建造されていたと信じる考古学者も少なくないという。そう、ピラミッドが定説よりも実際は2500年以上古いのではないかというのだ。

しかし、仮にこの説が正しいとすると、大きな疑問が生じることになる。史上初めてナイル川の上下流域を統一する「第1王朝」が出現し古代エジプト文明が始まったのは、紀元前3000年ごろである。つまりピラミッドは、古代エジプト文明の誕生時、すでにギザの地に存在していたことになり、「なぜ」「どのように」という現在唱えられている謎に加え、「誰が」という新たな謎が生まれてしまうのだ。

ピラミッドが古代エジプト人のものではないとしたら、一体誰が、どのように作り上げたのか?

一部の研究者によると、この疑問を一気に解き明かす画期的な答えが存在し、裏づけとなる証拠も多数見つかっているという。それこそが、ピラミッドと「巨人」の関係という、人類史を覆す画期的な新説なのだ!


巨人がピラミッドを作った証拠多数!

ピラミッドが古代エジプト文明よりも前に誕生したと信じる人々は、太古の昔、この地球上に存在した「巨人」こそが本当の建造者だったと考えている。突拍子もない説に聞こえるかもしれないが、その証拠も実際に多数残されているという。

まずは、古代エジプトの壁画だ。現存する壁画の中には、明らかにスケールの異なる人間たちの姿が、ともに描かれているものがあるという。小さな人間と、背丈が何倍も大きな人間とが一戦を交える様子を表した壁画さえ発見されているのだ。これは、古代エジプト人が、巨人たちからピラミッドを“奪った”可能性を示唆するものといえる。

さらに1988年、ドイツの日刊紙「BILD」は、古代エジプト文明以前に現地で巨人が暮らしていたことを物語る発見をスクープとして報じている。それによると、古代エジプト文明の研究者であるグレゴール・シュペリという人物は、調査で現地を訪れた際、カイロから100km北東に位置する農場で“とある老人”と出会った。

この老人、実は過去にエジプトの古代遺跡を盗掘していた人物だったが、「300米ドルで“とんでもないもの”を見せてやろう」と提案してくる。老人の話を呑み、シュペリ氏が目にしたのが、なんと“巨人の指”だったというのだ。ミイラ化を通り越して、まるで木の枝のように変化していたが、それは間違いなく巨大な人間の指。写真にも収められているので、一目瞭然だ。その大きさから、巨人の身長は約4.5mだったのではないかとシュペリ氏は推測している。


巨人の存在を認めたほうが“自然”?

巨人など伝説上の存在であり、実在したはずがないと一笑に付す読者がいるかもしれない。しかし、よく考えてみて欲しい。ピラミッドを構成する巨大な岩石、そして約140mという高さについて「大きな人間のスケールに合わせたもの」と視点を変えるほうが、違和感が少ないのではないだろうか。

実際、ストーンヘンジ(英国)などに代表される「巨石文明」の痕跡も、かつて地球上に巨人が存在していた証だと考えれば、腑に落ちる点が実に多い。そして、巨人伝説が洋の東西を問わず世界各地に存在する点も決して見逃すことはできない。文化を越えて、私たちの記憶には、かつて共存していた巨人たちの記憶が残されているのではないか?

ただし、かつて地球上のいたる場所に暮らしていた巨人が姿を消してしまった理由については、研究者たちの間でも「大洪水の発生」や「病気の蔓延」など意見は割れている。しかし近年の主流は、「現世人類である私たちと長い時をかけて交配してしまった」とする説だ。その結果、現世人類に一定の割合で巨人症が発現するようになったという。


http://www.excite.co.jp/News/odd/Tocana_201604_post_9471.html
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徳川家康
1: ミラノ作 どどんスズスロウン(東京都)@\(^o^)/ 2016/04/12(火) 01:30:44.06 ID:L9L5Tg6M0.net
多くの武将たちが権謀術数をめぐらす戦国時代。そこで最後に勝ち残ったのは、なぜ徳川家康だったのか? 。目の前の変化から学ぶ家康の学習優位戦略こそ、不確実な今の時代にビジネスパーソンが学ぶべき戦略である。 今も昔も変わらない不変の勝利の法則を、ビジネスでも応用できるようにまとめた新刊『戦略は歴史から学べ』から 一部を抜粋して紹介する。


最速で学び反映できる者が最後は生き残る

最後に登場した徳川家康が、なぜ天下を獲れたのか?家康の古くからの同盟者の織田信長が死去し、日本で一番 出世した男と言われる豊臣秀吉の天下となる。小牧・長久手の戦いのあと、長い雌伏の期間を得て、家康は天下人 として開花。1600年の関ヶ原で勝利した英雄は、どんな戦略で逆転したのか?

反抗した勢力を徹底的につぶした秀吉

信長の次男、信雄と家康が秀吉と対峙した「小牧・長久手の戦い」は、家康が人質を差し出す形で停戦しましたが、翌1585年に秀吉は伊勢に出兵。前年に家康に呼応して反秀吉側で戦った雑賀衆を壊滅させます。3ヵ月後には四国の長宗我部を制圧、5ヵ月後には北陸に大軍を派遣、反秀吉側の佐々成政を攻め、領地の大半を奪います。

同年11月には、家康の腹心だった石川数正が突如、秀吉側の家臣となる事件が起きるなど、停戦後に電光石火で反勢力を各個撃破、秀吉は自らの基盤をさらに強固にします。

・九州の島津を討伐(1586年7月~翌年4月)
・家康が秀吉に臣従を誓う(1586年10月)
・小田原、北条氏討伐と秀吉の天下統一(1590年)

北条氏討伐の同年、家康は秀吉の命令で関東に所領が移されます。代々縁の深い三河地方ではなく、家康と家臣団の拠点は関東平野に移動。入り江や沼地が多かった関東平野を開墾し、利水・埋立事業を起こしたことで、今日の東京への基礎がつくられます。


http://diamond.jp/articles/-/89180
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豊臣秀吉の過ち
1: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 2016/04/02(土) 18:54:02.57 ID:nQlyiL+S0.net
織田信長とかは結構ドラマとかになってるのに
秀吉ってあまりそういうのなくね?

かわいそう・・・
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江戸時代の仕事 (1)


江戸時代の仕事 (2)


江戸時代の仕事 (3)
1: 以下、\(^o^)/でVIPがお送りします 2016/03/28(月) 07:42:12.286 ID:nxCyjxdr0.net
今は選択肢が多すぎてやりたいことを探したりしてしまう
昔は農民なら一生農民をするしかなかった

今の考えからすればそんなの嫌かもしれんが

当時はそれ以外の生き方があるという発想すらない
辞めるという選択もないので葛藤もしない

ただ仕事に身を委ねていれば生きていけた

夢に挑戦するチャンスはないが、失敗して挫折感を味わうこともなかった

社会は果たして進歩したのか
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鎌倉大仏 (2)


鎌倉大仏 (1)

※金箔らしきモノが貼られた跡がある鎌倉大仏
1: シャチ ★ 2016/03/22(火) 22:07:41.57 ID:CAP_USER*.net
東京文化財研究所(東京都台東区)は22日、55年ぶりに保存修理した国宝、鎌倉大仏(阿弥陀如来坐像、あみだにょらいざぞう)について、13世紀の創建当初から顔だけが金色だった可能性があると発表した。

鎌倉大仏は江戸時代の文献に金色だったと記され顔については「金箔(きんぱく)」とする明治時代の報告書があるほか金メッキ説もある。今回の修理に伴い、X線による金属調査などで大仏の右頬などに残る金が目の周囲や鼻でも確認された。

調査を担当した同研究所の森井順之(まさゆき)主任研究員は「金は創建当初のものと推測される」と話している。


http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160322-00000113-mai-soci
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ローマの生活 (1)


ローマの生活 (2)


ローマの生活 (3)


ローマの生活 (4)


ローマの生活 (5)
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忠臣蔵 (1)


忠臣蔵 (2)
1: ハーフネルソンスープレックス(東京都)@\(^o^)/ 2016/03/16(水) 19:06:49.07 ID:JDdzcPTu0.net
「忠臣蔵」でおなじみ、赤穂浪士の討ち入りの舞台となった吉良上野介(きらこうずけのすけ)の屋敷跡を、地元・両国の人たちが守り続けている。世のイメージへの反論と「吉良びいき」はいかほどだろう。 ことの始まりは江戸城の松の廊下。元禄14(1701)年3月、上野介は赤穂藩主・浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)に斬りつけられて傷を負う。理由は諸説あるが、幕府は内匠頭を切腹させ、浅野家は取りつぶしに。大石内蔵助(おおいしくらのすけ)ら赤穂浪士47人は翌年、吉良邸に討ち入り、上野介の首をとる――。

討ち入りは元禄15年12月14日とされる。寒さが厳しかった今年1月下旬、東京都墨田区両国3丁目にある吉良邸跡を訪ねた。真っ白ななまこ塀の門をくぐると、内側は10メートル四方の敷地。吉良邸跡保存会の岡崎安宏会長(83)は「屋敷の一角だった場所。吉良邸は本来、この86倍の広さがあったんです」。1934年、売り出されていた民有地を地元の有志が資金を出し合って買ったという。

塀に埋め込まれた絵画や写真の説明書きには、上野介が〈領民と親しく接していた〉などとある。〈襲撃の犠牲者〉として吉良家の家臣20人の名前が刻まれた石碑もあった。ひときわ存在感を放つのが上野介の座像だ。高さ75センチ。上野介が治めた愛知県西尾市(旧吉良町)に伝わる座像を モデルに、地元町会や保存会などが2010年、340万円をかけてつくった。岡崎さんは「『首を切られた人の像はねえだろう』 って声も町会にはあったけど、悪者の認識を改めるんだって思いでね」。


http://www.asahi.com/articles/ASJ2V4387J2VUTIL01G.html
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考え方
1: 的井 圭一 ★ 2016/03/17(木) 13:00:49.96 ID:CAP_USER*.net
誰もが名前を知っている歴史上の偉人たち。でも、彼らの懐事情となると知っている人はそう多くはない。『日本人の給与明細 古典で読み解く物価事情』(角川ソフィア文庫)の著者である山口博・富山大学名誉教授、そして歴史研究家で文教大学付属高等学校教諭の河合敦氏の協力のもと、「偉人たちの年収ランキング」を作成。一番おカネ持ちの英雄は“あの人”だった! ここではあの偉人25人を紹介する。その前に、今回の算出条件をみてみよう。

●時代を代表する為政者、武将、大名、軍人、政治家らを中心に、山口博・富山大学名誉教授、河合敦・文教大学付属高等学校教諭の協力のもと資料が残っている人物を優先して算出。

●大名の場合、総石高の半分を農民に、残り半分を領主が受け取っていたとする(五公五民)。そのうえでさらに臣下の取り分を3分の2と仮定したため、大名の取り分は総石高の6分の1とした。一方で、宮本武蔵のように家臣を持たない武士の場合にはそのまま収入とした。

●米1石=1000合=150キログラムとし、当時の米の価値から15万円とした。

●1両は当時のレートで換算。江戸時代中期の市川團十郎のみ6万円とし、他は江戸時代後期の偉人であることから1万円とした。

●西郷隆盛が陸軍大将となった明治初期の1円は現在の2万円とし、伊藤博文らの時代である明治後期は1万円、東条英機らの時代である昭和初期は5000円とした。
 
●金額については諸説存在するケースがある。


【歴史上の偉人たち「年収」ランキング】
(偉人名:当時の年収・現在価値での年収・備考の順)

(1位)織田信長:117万石・1750億円
本能寺の変の直前である1582年頃に支配していた、関東の一部や中部・近畿・中国地方の石高が700万石。

(2位)徳川家康:67万石・1000億円

1600年頃の伊豆・相模・武蔵・上野・下野・下総・上総・常陸・甲斐などを直轄領としており、その石高は400万石。

(3位)豊臣秀吉:37万石・555億円
天下統一後、関白職を秀次に譲り太閤となった最盛期1591年頃の直轄領の石高は222万石。

(4位)上杉謙信:24万石・362億円
出羽、越後、佐渡、越中、能登などを領地とした時の石高が145万石。

(5位)武田信玄:22万石・335億円
甲斐、信濃、駿河と遠江、三河、飛騨、越中などを領地とした時の石高は約134万石。

(6位)伊達政宗:19万石・285億円

1589年の秀吉による小田原城攻めに参加する直前の頃、陸奥、出羽66郡の約半数を治めていた時の石高が114万石。

(7位)徳川光圀:4万6666石・70億円

水戸藩第二代藩主となった1661年の石高28万石をもとに算出。

(8位)石田三成:3万2000石・47億円
関ヶ原の戦いにおいて西軍の指揮官だった頃の石高が19万石。敗戦後、領地は没収された。

(9位)真田昌幸:6333石・9億5000万円
石高は3万8000石。長男の信之は13万石まで勢力を伸ばした。

(10位)藤原道長:田地、綿などの現物支給・4億5000万円
従一位太政大臣時の給料。ほかにも荘園の名義貸しをして得た収入があったといわれている。

(11位)大岡忠相:1666石・2億5000万円
「大岡裁き」の大岡越前。町奉行での働きが認められて寺社奉行になり、1万石の大名となった。

(12位)長谷川平蔵:1500石・2億2500万円
『鬼平犯科帳』の鬼平のモデル。火付盗賊改方の長を務め、情報収集のために町人にそばを振る舞うなどして経費がかさんだという。

(13位)勝海舟:1000石・1億5000万円
1872年制定の太政官制における従二位の年給俸禄を基に算出。枢密顧問官も務めていたが、その待遇は不明。

(14位)大久保利通:7200円・1億4000万円
参議という大臣クラスの役職の給料。実質的に政界のトップとして「富国強兵」をスローガンに殖産興業政策を推進した

(15位)源頼朝:田地、綿などの現物支給・1億2400万円

正二位の年俸が1億1000万円に征夷大将軍の給与1400万円程度が加わる。別に将軍家の荘園からの収入があった

(16位)西郷隆盛:6000円・1億2000万円
 陸軍大将の地位にあった1872年の月給が500円。当時、大佐の月給は250円、大尉は100円だった。

(17位)伊藤博文:9600円・9600万円

1885~1888年の内閣総理大臣としての月給800円から算出。

(18位)市川團十郎(2代目):1000両・6000万円
1721年に給金が1000両になった。千両役者の語源ともいわれ、あまりの人気に収入が高額になりすぎ、幕府が給料の上限を決めるほどだった

(18位)東郷平八郎:6000円・6000万円

1904年1月21日の海軍給典令における海軍大将の年俸。なお、参謀として有名な秋山真之は当時中佐で年俸は約1800円(1800万円)

(20位)宮本武蔵:330石・4950万円
晩年の1640年、熊本城主の細川忠利に剣術の指南役として招かれた際の禄高。浪人の身分で指南役という大役を任されるのは異例。

(21位)東条英機:9600円・4800万円

当時の総理大臣の月収800円から算出。なお、1931年の陸軍大将の月収は550円、二等兵は6円だった

(22位)大石内蔵助:250石・3750万円

祖父・良欽が死去して受け継いだ遺領の石高が1500石。なお、吉良邸への討ち入り費用は691両(約7000万円)といわれている。

(23位)山本五十六:6600円・3300万円
 1943年の海軍大将の年俸。1943年に前線視察の際、ブーゲンビル島上空で戦死した。

(24位)近藤勇:600両・600万円
副長の土方歳三は約480万円、沖田総司や斎藤一は約360万円、下級隊士は約120万円。下級隊士でも当時としては高給だった。

(25位)坂本龍馬:60両・60万円
坂本龍馬が結成し、日本初の株式会社といわれる「海援隊」のメンバーには毎月5両の給料が支払われていた。


ニュース元
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20160317-00000011-pseven-life
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