歴史上の人物

ノストラダムス
1: 黒髪隠者 2017/02/010(金) 07:45:26.61 0
昭和の時代、ノストラダムス関係の本が数多く出版されテレビも著名人を呼んで2時間枠で特別番組を放映していました。1999年に人類が滅亡するフレーズが日本人の琴線を刺激したらしく「1999年7月で人類は終わるから好きに生きたい」と考える人が多かったそうです。幸いにも1999年7月に人類が滅びる予言はハズレ、人類は地球の支配者として今日も元気に生きています。

1999年を特別な年にしたノストラダムスについて話し合うスレッドが2ちゃんねるにあったので取り上げてみました。


2ちゃんねるの反応

2ちゃんねるの利用者は年配の方が多いので1990年当時の事を多くの人が語ってくれました。彼らによるとノストラダムスが書いた本は予言書ではなく、ただの詩集で、そこに無理やり未来の出来事を当てはめたそうです。しかも、詩には一言も人類が滅亡するとは書いてないとの事です。

おそらく1999年7月まで利益を得ようと出版業界とテレビ局が考えた、やらせだと思います。考えてみれば地球人類が何の前触れもなしに1999年の7月に一斉に死に絶えるなんてありえないですよね。

(文/隠者ニュース管理人)


2ch議論ネタ
モ娘・掲示板
ノストラダムスの予言って何だったんだろうな.....
続きを読む

天草四朗
1: ニールキック(大阪府) 2016/11/07(月) 11:51:26.34 ID:GhIo60OK0
天草四郎といえば、江戸時代初期のキリシタンで、幕府に抵抗した島原の乱のリーダーとされる人物だ。 しかし「天草四郎、もともといない説」に触れ、次のように説明した。

天草四郎がいない理由

・一揆をおさめた幕府が天草四郎の首を持ってこさせたとき、背格好の似た少年の首が複数集まったと、幕府の記録に残っている。

・2015年、熊本大学名誉教授の吉村豊雄氏が「“天草四郎”は、複数の少年からなるグループ名」という説を出した。


http://news.livedoor.com/article/detail/12248020/
続きを読む

徳川家康
1: ミラノ作 どどんスズスロウン(東京都)@\(^o^)/ 2016/04/12(火) 01:30:44.06 ID:L9L5Tg6M0.net
多くの武将たちが権謀術数をめぐらす戦国時代。そこで最後に勝ち残ったのは、なぜ徳川家康だったのか? 。目の前の変化から学ぶ家康の学習優位戦略こそ、不確実な今の時代にビジネスパーソンが学ぶべき戦略である。 今も昔も変わらない不変の勝利の法則を、ビジネスでも応用できるようにまとめた新刊『戦略は歴史から学べ』から 一部を抜粋して紹介する。


最速で学び反映できる者が最後は生き残る

最後に登場した徳川家康が、なぜ天下を獲れたのか?家康の古くからの同盟者の織田信長が死去し、日本で一番 出世した男と言われる豊臣秀吉の天下となる。小牧・長久手の戦いのあと、長い雌伏の期間を得て、家康は天下人 として開花。1600年の関ヶ原で勝利した英雄は、どんな戦略で逆転したのか?

反抗した勢力を徹底的につぶした秀吉

信長の次男、信雄と家康が秀吉と対峙した「小牧・長久手の戦い」は、家康が人質を差し出す形で停戦しましたが、翌1585年に秀吉は伊勢に出兵。前年に家康に呼応して反秀吉側で戦った雑賀衆を壊滅させます。3ヵ月後には四国の長宗我部を制圧、5ヵ月後には北陸に大軍を派遣、反秀吉側の佐々成政を攻め、領地の大半を奪います。

同年11月には、家康の腹心だった石川数正が突如、秀吉側の家臣となる事件が起きるなど、停戦後に電光石火で反勢力を各個撃破、秀吉は自らの基盤をさらに強固にします。

・九州の島津を討伐(1586年7月~翌年4月)
・家康が秀吉に臣従を誓う(1586年10月)
・小田原、北条氏討伐と秀吉の天下統一(1590年)

北条氏討伐の同年、家康は秀吉の命令で関東に所領が移されます。代々縁の深い三河地方ではなく、家康と家臣団の拠点は関東平野に移動。入り江や沼地が多かった関東平野を開墾し、利水・埋立事業を起こしたことで、今日の東京への基礎がつくられます。


http://diamond.jp/articles/-/89180
続きを読む

豊臣秀吉の過ち
1: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 2016/04/02(土) 18:54:02.57 ID:nQlyiL+S0.net
織田信長とかは結構ドラマとかになってるのに
秀吉ってあまりそういうのなくね?

かわいそう・・・
続きを読む

忠臣蔵 (1)


忠臣蔵 (2)
1: ハーフネルソンスープレックス(東京都)@\(^o^)/ 2016/03/16(水) 19:06:49.07 ID:JDdzcPTu0.net
「忠臣蔵」でおなじみ、赤穂浪士の討ち入りの舞台となった吉良上野介(きらこうずけのすけ)の屋敷跡を、地元・両国の人たちが守り続けている。世のイメージへの反論と「吉良びいき」はいかほどだろう。 ことの始まりは江戸城の松の廊下。元禄14(1701)年3月、上野介は赤穂藩主・浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)に斬りつけられて傷を負う。理由は諸説あるが、幕府は内匠頭を切腹させ、浅野家は取りつぶしに。大石内蔵助(おおいしくらのすけ)ら赤穂浪士47人は翌年、吉良邸に討ち入り、上野介の首をとる――。

討ち入りは元禄15年12月14日とされる。寒さが厳しかった今年1月下旬、東京都墨田区両国3丁目にある吉良邸跡を訪ねた。真っ白ななまこ塀の門をくぐると、内側は10メートル四方の敷地。吉良邸跡保存会の岡崎安宏会長(83)は「屋敷の一角だった場所。吉良邸は本来、この86倍の広さがあったんです」。1934年、売り出されていた民有地を地元の有志が資金を出し合って買ったという。

塀に埋め込まれた絵画や写真の説明書きには、上野介が〈領民と親しく接していた〉などとある。〈襲撃の犠牲者〉として吉良家の家臣20人の名前が刻まれた石碑もあった。ひときわ存在感を放つのが上野介の座像だ。高さ75センチ。上野介が治めた愛知県西尾市(旧吉良町)に伝わる座像を モデルに、地元町会や保存会などが2010年、340万円をかけてつくった。岡崎さんは「『首を切られた人の像はねえだろう』 って声も町会にはあったけど、悪者の認識を改めるんだって思いでね」。


http://www.asahi.com/articles/ASJ2V4387J2VUTIL01G.html
続きを読む

考え方
1: 的井 圭一 ★ 2016/03/17(木) 13:00:49.96 ID:CAP_USER*.net
誰もが名前を知っている歴史上の偉人たち。でも、彼らの懐事情となると知っている人はそう多くはない。『日本人の給与明細 古典で読み解く物価事情』(角川ソフィア文庫)の著者である山口博・富山大学名誉教授、そして歴史研究家で文教大学付属高等学校教諭の河合敦氏の協力のもと、「偉人たちの年収ランキング」を作成。一番おカネ持ちの英雄は“あの人”だった! ここではあの偉人25人を紹介する。その前に、今回の算出条件をみてみよう。

●時代を代表する為政者、武将、大名、軍人、政治家らを中心に、山口博・富山大学名誉教授、河合敦・文教大学付属高等学校教諭の協力のもと資料が残っている人物を優先して算出。

●大名の場合、総石高の半分を農民に、残り半分を領主が受け取っていたとする(五公五民)。そのうえでさらに臣下の取り分を3分の2と仮定したため、大名の取り分は総石高の6分の1とした。一方で、宮本武蔵のように家臣を持たない武士の場合にはそのまま収入とした。

●米1石=1000合=150キログラムとし、当時の米の価値から15万円とした。

●1両は当時のレートで換算。江戸時代中期の市川團十郎のみ6万円とし、他は江戸時代後期の偉人であることから1万円とした。

●西郷隆盛が陸軍大将となった明治初期の1円は現在の2万円とし、伊藤博文らの時代である明治後期は1万円、東条英機らの時代である昭和初期は5000円とした。
 
●金額については諸説存在するケースがある。


【歴史上の偉人たち「年収」ランキング】
(偉人名:当時の年収・現在価値での年収・備考の順)

(1位)織田信長:117万石・1750億円
本能寺の変の直前である1582年頃に支配していた、関東の一部や中部・近畿・中国地方の石高が700万石。

(2位)徳川家康:67万石・1000億円

1600年頃の伊豆・相模・武蔵・上野・下野・下総・上総・常陸・甲斐などを直轄領としており、その石高は400万石。

(3位)豊臣秀吉:37万石・555億円
天下統一後、関白職を秀次に譲り太閤となった最盛期1591年頃の直轄領の石高は222万石。

(4位)上杉謙信:24万石・362億円
出羽、越後、佐渡、越中、能登などを領地とした時の石高が145万石。

(5位)武田信玄:22万石・335億円
甲斐、信濃、駿河と遠江、三河、飛騨、越中などを領地とした時の石高は約134万石。

(6位)伊達政宗:19万石・285億円

1589年の秀吉による小田原城攻めに参加する直前の頃、陸奥、出羽66郡の約半数を治めていた時の石高が114万石。

(7位)徳川光圀:4万6666石・70億円

水戸藩第二代藩主となった1661年の石高28万石をもとに算出。

(8位)石田三成:3万2000石・47億円
関ヶ原の戦いにおいて西軍の指揮官だった頃の石高が19万石。敗戦後、領地は没収された。

(9位)真田昌幸:6333石・9億5000万円
石高は3万8000石。長男の信之は13万石まで勢力を伸ばした。

(10位)藤原道長:田地、綿などの現物支給・4億5000万円
従一位太政大臣時の給料。ほかにも荘園の名義貸しをして得た収入があったといわれている。

(11位)大岡忠相:1666石・2億5000万円
「大岡裁き」の大岡越前。町奉行での働きが認められて寺社奉行になり、1万石の大名となった。

(12位)長谷川平蔵:1500石・2億2500万円
『鬼平犯科帳』の鬼平のモデル。火付盗賊改方の長を務め、情報収集のために町人にそばを振る舞うなどして経費がかさんだという。

(13位)勝海舟:1000石・1億5000万円
1872年制定の太政官制における従二位の年給俸禄を基に算出。枢密顧問官も務めていたが、その待遇は不明。

(14位)大久保利通:7200円・1億4000万円
参議という大臣クラスの役職の給料。実質的に政界のトップとして「富国強兵」をスローガンに殖産興業政策を推進した

(15位)源頼朝:田地、綿などの現物支給・1億2400万円

正二位の年俸が1億1000万円に征夷大将軍の給与1400万円程度が加わる。別に将軍家の荘園からの収入があった

(16位)西郷隆盛:6000円・1億2000万円
 陸軍大将の地位にあった1872年の月給が500円。当時、大佐の月給は250円、大尉は100円だった。

(17位)伊藤博文:9600円・9600万円

1885~1888年の内閣総理大臣としての月給800円から算出。

(18位)市川團十郎(2代目):1000両・6000万円
1721年に給金が1000両になった。千両役者の語源ともいわれ、あまりの人気に収入が高額になりすぎ、幕府が給料の上限を決めるほどだった

(18位)東郷平八郎:6000円・6000万円

1904年1月21日の海軍給典令における海軍大将の年俸。なお、参謀として有名な秋山真之は当時中佐で年俸は約1800円(1800万円)

(20位)宮本武蔵:330石・4950万円
晩年の1640年、熊本城主の細川忠利に剣術の指南役として招かれた際の禄高。浪人の身分で指南役という大役を任されるのは異例。

(21位)東条英機:9600円・4800万円

当時の総理大臣の月収800円から算出。なお、1931年の陸軍大将の月収は550円、二等兵は6円だった

(22位)大石内蔵助:250石・3750万円

祖父・良欽が死去して受け継いだ遺領の石高が1500石。なお、吉良邸への討ち入り費用は691両(約7000万円)といわれている。

(23位)山本五十六:6600円・3300万円
 1943年の海軍大将の年俸。1943年に前線視察の際、ブーゲンビル島上空で戦死した。

(24位)近藤勇:600両・600万円
副長の土方歳三は約480万円、沖田総司や斎藤一は約360万円、下級隊士は約120万円。下級隊士でも当時としては高給だった。

(25位)坂本龍馬:60両・60万円
坂本龍馬が結成し、日本初の株式会社といわれる「海援隊」のメンバーには毎月5両の給料が支払われていた。


ニュース元
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20160317-00000011-pseven-life
続きを読む

宮本武蔵
1: 名無し募集中。。。@\(^o^)/ 2016/02/12(金) 13:53:14.01 0.net
まったく
続きを読む

豊臣秀吉の過ち
1: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 2016/01/23(土) 11:50:56.01 ID:pIKwogZW0.net
秀吉最大の失敗やろ
そのまま名古屋あたりに置いとけば良かったものを
続きを読む

国会議事堂
1: 以下、\(^o^)/でVIPがお送りします 2015/12/05(土) 13:28:38.805 ID:722jDzBK0.net
総理大臣マニアの俺が歴代首相のベスト10とワースト10を発表します。
10位から発表するのでお楽しみに。


【評価基準】
 
・首相在任中の功績をもとに評価。

・首相でなかったときの業績は考慮しない(番外編を除く)。
 
・原則、結果主義で評価する。いくら能力があろうと、
 結果を出せなければ無意味。

・おまけとして、敢闘賞および番外編も載せます。
続きを読む

キリスト (1)
1: あずささん ★ 2015/12/25(金) 17:33:41.24 ID:CAP_USER*.net
イエス・キリストの外見ならだれもが知っている。西洋美術でキリストほどモチーフにされてきた はいない。長髪でひげをたくわえ、長袖で裾長の服(白が多い)に衣を重ねている(青が多い)。


キリスト (2)

「これぞジーザス」とその見た目はあまりに分かりやすいので、パンケーキやトーストに表われてもすぐに分かるほどだ。けれども本当にイエス・キリストはこういう姿だったのだろうか?

おそらく違う。私たちが慣れ親しんでいるこのイエスの姿は実は紀元4世紀以降、ビザンチン期のものだ。そして ビザンチン時代のキリスト画像は、歴史的に正確な描写ではなく、象徴としてのイエスを描いたものだった。ローマのサンタ・プデンツィアーナ教会の祭壇に描かれたモザイク画のように、玉座に座り君臨する皇帝をイメージした姿なのだ。


キリスト (3)

このモザイク画でイエスは金色の長衣を着ている。全世界を支配する天上の存在で、オリンポス山の玉座に君臨するゼウス像によく似た長いひげと長髪姿だ。ゼウス像はあまりに有名で、古代ローマのアウグストゥス帝は同じポーズで自らの像を作らせたほどだった(神々しい長髪とひげは省いたが)。


キリスト (4)

ビザンチン時代の芸術家たちは、全宇宙の王、天上の支配者としてのキリストを描こうとして、若いゼウスのような姿で描いた。それ以来、天上の存在としてのキリスト像が、初期のイエスの姿の標準となった(現代では時折ヒッピー風になるが)。


キリスト (5)
 
では結局、本当のイエスはどういう姿だったのだろう?


ニュース元
http://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-35173762
続きを読む

upload-48

home-48

Book_of_record

twitter2-48

rss-48